令和4年11月八日講が勤まりました
秋晴れの心地よいの日になり、8人の方がお参りになられました。
本日の布教使は神戸市、長福寺住職・鹿島貴志師でした。冒頭で【有難い】という言葉を紹介され、その反対の言葉は何なのか尋ねられました。意味しては有難くないという事。それは【当たり前】という言葉。
私達の生活って本当に何でも当たり前になっているなぁとつくづく感じました。色々な物が便利になり、生活水準が上がりました。いつでも好きな時に好きな食事が取れる。いつでも自動にお風呂が沸いて入ることが出来る。洗濯だって全自動。暑い時には冷房が効いて、寒い時には暖房が効く。暖かい布団があって毎日ぐっすり寝ることが出来る。そのことが当たり前となっていて、有難いことだとは全く思っていない。便利なことが出来なくなって初めてその有難さが分かる・・・。そんな事ってないでしょうか。
鹿島師が井村和清さんの【あたりまえ】の詩を紹介されました。
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょうか。あたりまえであることを。お父さんがいる。お母さんがいる。手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ自分で歩いて行ける。手を伸ばせばなんでもとれる。音が聞こえて声が出る。こんなしあわせはあるでしょうか。しかし、だれもそれをよろこばない。あたりまえだ、と笑ってすます。
食事がたべられる。夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝が来る。空気を胸いっぱいにすえる。笑える、泣ける、叫ぶこともできる。走り回れる、みんなあたりまえのこと。こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。そのありがたさを知っているのは、それをなくした人たちだけ。なぜでしょう。あたりまえ。
久しぶりにこの詩を聞かせて頂きました。本当に自分が今こうして有ることに「有難さ」を感じることが無く、有ることが当然「当たり前」と思って日暮らしをしています。おそらく誰もがそうなのではないでしょうか。その日暮らしは駄目だとは言えない。しかし、私達の本当の有り方、【有る事難し】の中を生かせて頂いておるということに目を向けるのも大切なことではないでしょうか。改めて見つめ直しをさせて頂きました。