令和5年1月八日講が勤まりました
今年最初の八日講が勤まりました。寒い日になりましたが29名の方がお参り下さいました。
本日の布教使は草津市、仏照寺住職・藤林照信師でした。
本日は「供養」という事について掘り下げるお話を頂きました。一般的に亡き人に手を合わせる時の思いとは、やはり【苦しむことなく安らかに眠って欲しい】でしょう。人生は山あり谷ありと言いますが、どうしても苦悩を抱えることが多く心に残ります。身近な人であればどんな経験をしてこられたかもよく知っています。だからこそ、せめて、どうか、亡き人には安らかであって欲しい。そう思うものです。私が亡き方を思って供養すること。これを漢字一文字で表すと「弔う」だと教えて頂きました。
本日のお話では、「とむらう」という言葉にはもう一つ、「訪う」という文字をあてる事もあると教えて頂きました。それは、亡き人が私のことをどう思って下さっていたのか、その思いを訪ねていくことです。この事は自分で考えて考えて分かることではありません。様々な経験、出会いの中で不意に出遇う、或いは気がつけば出遇っているものです。本日のお話では、自らが親となったその時に、亡き親からどれ程の思いをかけられていたことかと、不意に思い至ったと熱く語って頂きました。
自分を中心とし、自分が何かをする、何かを思う。ただそれだけの日々の中で、それだけに収まらない、思われていた自分に出遇う。そういう出遇いをした方のお話をし、また1年、折に触れて聞かせて頂きたいと思ったことでございました。