令和7年1月の八日講が勤まりました!
令和7年、最初の八日講が勤まりました。今年も35名の方が参りをいただき、本堂は満堂になりました!共に正信偈のお勤めをしました。
本日の布教使は、滋賀県草津市の仏照寺住職・藤林照信師でした。昨年の1月の八日講でも布教を賜りました。
布教では仏説阿弥陀経に出てくる「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」という言葉から、お浄土の世界についてお話をいただきました。
お浄土の世界では、色の異なった様々な蓮の花が、それぞれの色を出してそれぞれがあるがままに見事に輝いている。そのように説かれている。その内容が具現化されたものが、お寺の本堂であり、皆さんの自宅にあるお内仏であると教えていただきました。そう本堂は誰もがそのままで輝ける、誰もがそのままの自分で良い世界なんだという事です。
では、実際に生きている私たちはどうだろうか。周りと比べて自分自身は駄目な人間であると勝手に思ったり、勝手に傷ついたりしている。
ご自身の高校時代の野球部での話。下手くそで何をやっても覚えるのに時間がかかる、どうしようもない人間だったが、監督から「何をやっても覚えるのに時間がかかる人間は、一回覚えたら絶対に忘れない。すぐに覚えられる器用な人間は逆にすぐに忘れてしまう。人生長い目で見たら、時間はかかるが覚えたら絶対に忘れない人間の方が強い。それを忘れずに頑張れ!」という事を言われたそうです。「こんな自分でもこのままで良い世界があったんだ!」と泣きながら強い衝撃を受けたそうです。今となれば、阿弥陀仏のお浄土の世界に触れたような感覚だったとお話いただきました。
お浄土とは確かに亡くなっていかれた方が参られる世界として教えられています。ただお浄土を表す言葉に一つ一つに意味があり、それがこの私にどんな意味をもたらしてくれるのか。お経の言葉を通して、この私の在り方を見つめ直しさせていただくことも大事ではないかと思います。
ある布教で、「お経は亡き方を供養する呪文ではなく、生きている私たちに向けたお釈迦さまからのメッセージである」と聞いたことがあります。その意味を改めて考えさせていただきました。