令和8年6月の八日講が勤まりました!
6月に入り梅雨時期になりましたが、12名の方がお参りをいただきました。

本日の布教使は、福井県西雲寺住職・護城一哉師でした。久しぶりに本廟の八日講で布教を賜りました。小学生ぐらいの小さなお子さんも2人お参りしていただき、和やかな雰囲気で始まりました。

布教では、今こうして生きていることについてお話をいただきました。私たちはいつ命が終わるか分からない命を今、こうして生きている。しかしながら、もしその命を突然終わっていかなければならなくなった時、「私の人生はこれで良かった」と心の底から思って人生を終えていくことが出来るか、と問いかけをされました。なかなか難しい問題だと思いましたが、皆さんはどうでしょうか。
実際はなかなかそうは思えないのではないかと。後悔が残ったり、何で私がこんな目に合わなければならないのか・・・!とそう思ってしまうのではないでしょうか。
そんな時に感じたのは日々の生き方です。普通に何不自由なく生活をして生きているのが当たり前になっておるのではないかと。有難いという言葉があります。その反対語は何か??意味は有難くないという意味。それは当たり前という言葉であると教わったことがあります。そう私たちは何の有難みを感じることもなく生きているんですね。

生きているとはそんな有難くない、当たり前であることでは決してない。生まれてきて様々なご縁に生かされて生きてきた。決して自分1人で生きてきた訳ではない。自分の思いや計らいを超えた様々なご縁に出遇ってきた。それは苦しい辛い腹が立つこともあったかもしれない。でもそれが今の私を形成しているんだと思うんです。そのお蔭で今の私があるんです!そして今もなお、様々なご縁や働きによってこの私は生かされている。
そのことに気付いてくれと亡くなっていかれた方々からのメッセージがあるのではないかと。生きていることをどうか当たり前のことではなく尊いことであるということを再度確認をして生きて行ってくれ!と。それを確認する場所が法事ではないかと思いました。
護城氏の冒頭の言葉。もし、命を突然終わっていかなければならなくなった時、「私の人生はこれで良かった」と心の底から思って人生を終えていくことが出来るか。その言葉を深く考えさせられた時間でありました。ありがとうございました。
