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令和8年7月八日講が勤まりました!

梅雨が明けていよいよ夏本番の暑い日が出てきました。平日にも関わらず17名の方にお参りをいただきました。

本日の布教使は、兵庫県常福寺住職・日下貴行師でした。この八日講は、この本廟に大切な方のお骨を納骨された方に、亡き方を通して仏教の教えに触れていただいて、この私の生き方を見つめ直すご縁になればということで、お勤めをさせていただいております。
今日は亡き方を「弔う」ということはどういう事なのかお話をしていただきました。

元々は「弔う(とぶらう)」ではなく、「訪う(とぶらう)」と言ったそうです。ご縁あった方が亡くなられたら、お供え物を持ってそのお家を訪ねる、そして亡き方を偲ぶという意味があったそうです。「訪う(とぶらう)」とは「訪ねる(たずねる)」とも読めます。亡き方の言葉や姿、その人の一つ一つを丁寧に訪ねていく。

私たち人間は、「分別」と呼ばれる厄介なものを抱えて生きています。「分別」とは、「瞬時にこの事柄は私にとって損か得か、私にとって何が良くて何が悪いのか」そういった無意識の判断のことを言います。これは私の意識だけではどうにもならないことだと教えられます。
 私たちは家族や職場、学校など様々な関係性がありますが、いずれの場所においてもお互いに細かいことで分別の壁を持って生活をしています。ただ、そういった関係性にある人が亡くなられると、私たちは今まで感じることがなかったその人の思いや願いを感じることがあります。

それは亡くなられて、そこでお互いの「分別の壁」が無くなるんじゃないかなぁ。分別が無くなって、初めて本当のその人の姿や思い、願いが見えてくるんじゃないかなぁと、そのようにお話をいただきました。
私たちは様々な関係性の中で「分別」を持って生きています。それは仕方のないことかもしれません。ただ、その「分別」を持っていきておるんだと。そしてそのことを本当の意味で知っていく。
改めて「分別」を持って生きている、そのことについて考えさせていただいた時間でありました。